自然界に「増えすぎ」という概念はあるのか
目次
- はじめに
- 「増えた」は事実か、それとも人間の評価か
- なぜ「シカが勝手に増えて困る」という構図になるのか
- 「環境の破壊」というラベルの裏にある人間中心主義
- まとめ:「増えすぎ」という言葉の前で、一度立ち止まる
はじめに
シカなどの野生動物に対して、その個体数を「増えすぎ」や「爆発的増加」と表現する言葉をよく耳にします。
しかし、この「増えすぎ」という表現をわたしたちは、どのように捉えればよいのでしょうか。
少なくとも科学的な記述においては非常に慎重であるべきであり、「増えすぎ」という言葉は実際の個体数そのものを客観的に表しているわけではありません。
2026年8月28日、環境省・南アルプス国立公園の公式Instagramに、約500頭のシカの群れをとらえた動画が投稿され、社会に大きなインパクトを与えました。コメント欄は、シカたちを「多い」「増えた」と認識する人々からの言葉で溢れかえっています。
なぜ私たちは、野生のシカたちの姿を見て即座に「増えた」「多すぎる」と感じてしまうのか。今回はこの「シカの増えすぎ」という表現の背後にある構造について、考えたいと思います。
「増えた」は事実か、それとも人間の評価か
「シカが増えた」と聞くと、一見すると「シカの個体数が生態学的に異常な水準まで達した」という客観的事実のように聞こえます。
しかし、そこには必ず「人間視点からの基準」が入り込んでいます。
例えば、農林業への被害、植生への変化、人間の生活圏への出没、あるいは「人間が望ましいと考える森林の状態が維持できない」といった懸念です。これらを根拠に「増えすぎている」と言うのであれば、それは単なる個体数の事実記述ではなく、人間側の利益や都合に基づく「評価」にすぎません。
生態学には「環境収容力」という考え方があります。生物は利用可能な資源や環境の限界を超えて生き続けることはできないため、物理的に環境収容力を超えた個体数であり続けることは不可能と言われています。
そもそも自然環境そのものには、人間のような「増えすぎ」という価値判断や規範は存在しません。自然界には個体数が増減する自律的な仕組みがありますが、「この数が正しい」という絶対的な定数は設定されていないのです。特定の地域において「シカは〇〇頭までしか存在してはいけない」というような絶対的な数字を定めているのは、自然ではなく常に人間です。
「シカが増えた」という表現に人間の評価が入った瞬間、「どこからが多すぎなのか」という基準が必要になります。しかし、その基準は自然が発するメッセージではなく、人間が何らかの目的のために設定した人工的な評価概念なのです。
なぜ「シカが勝手に増えて困る」
という構図になるのか
例えば、「シカの個体数増加によって特定の植生に強い変化が生じている」という観察・分析は科学的に可能です。しかし、その事実から直ちに「だからシカは増えすぎている」と結論づけることはできないと考えます。なぜなら、事実の記述から、いつの間にか評価へとすり替わっているからです。
さらに重要なのは、現在のシカの個体数や生息環境そのものが、長期にわたる人間の活動によって形作られてきたという視点です。土地利用の開発、森林管理のあり方、農地や道路の拡大、都市化など、人間側の活動が野生動物の生息地や生態系に甚大な影響を与えてきました。
よく「シカが生態系に悪影響を与えている根拠は揃っている」と言われます。しかし、その根拠のなかに「人間活動による自然環境への影響」が正当に評価に含まれているケースは多くはありません。狩猟や捕殺事業も含め、人間が与え続ける激しい環境変化に対して、シカたちがどのように適応し、行動や個体数を変化させてきたのか。その動的な生態プロセスは見えないまま放置されてはいないでしょうか。
野生動物たちは、人間によって変化させられた環境に適応しながら、懸命に生き、行動や個体数を変化させているに過ぎません。
それにもかかわらず、「シカが増えすぎた」とだけ表現してしまうと、「自然の側でシカが勝手に増えて問題を引き起こしている」という責任転嫁の構図が生まれてしまいます。ここに非常に大きな問題があります。
「増えすぎた」というラベルが貼られると、人々は「多い=問題である=減らさなければならない=人間が個体数をコントロールすべきだ」という思考に誘導されます。そして、「何頭減らすべきか」という管理・操作の発想が当然のように登場するのです。
しかし、ここで根源的な問いが浮かび上がります。野生動物の「適正な数」とは、誰にとっての適正なのでしょうか。私は、ここに哲学的・倫理的な問題があると考えています。野生動物の個体数を人間が「適正」「過剰」と評価し、その評価を根拠として個体数を操作することは、本当に当然のことでしょうか。
シカにとっての適正、農林業者にとっての適正、あるいは特定の生態系イメージを保持したい人間にとっての適正。これら一致するものではありません。「増えすぎ」や「適正数」という言葉を使うとき、私たちは「誰の利益や価値観を基準にしているのか」を常に自覚する必要があります。
「環境の破壊」というラベルの裏にある人間中心主義
メディアやSNSを見渡すと、シカたちの生命維持活動に対して「森林の危機」「深刻な生態系への悪影響」「生態系を根本から破壊する」などといったネガティブな言葉が躍っています。
しかし、野生動物が生命を維持する過程で環境に影響を与えること自体は、自然界においてごく普通のことです。
「破壊」や「悪影響」という表現には、「人間にとって望ましい『本来あるべき自然の姿』が存在し、そこから悪化した」という人間中心的な自然観が含まれています。シカが植物を食べ、植生が変化するという客観的現象に対して、「自然環境を破壊している」と決めつけるには、もう一段階の主観的な価値判断を挟まなければ成立しません。
私は、野生動物の生命活動を「問題」と定義し、その評価を根拠に個体数を力づくで操作することを正当化する風潮に強い疑問を感じています。
シカの採食による植生の変化だけを切り取り、「シカが悪影響を与えている」と糾弾するならば、その生態系を今日まで改変し続けてきた「人間活動の影響」もまったく同じ尺度で評価の対象に含めるべきではないでしょうか。
まとめ:「増えすぎ」という言葉の前で、
一度立ち止まる
「シカが増えた」(正確には回復)という客観的な事実と、「シカが増えすぎた」という主観的な評価は、同じではありません。
「植生が変化した」という事実と、「シカが自然環境を破壊した」という評価も、同じではありません。
そして、「増えすぎた」という評価から、「だから人間がシカを減らすべきだ」という結論へ飛躍することも、決して当然ではないのです。
その間には、いくつもの重要な問いが存在しています。何を「望ましい自然」とするのか。誰の利益や価値観を基準にしているのか。その環境は、これまでどのように形成されてきたのか。そして、私たち人間にはどのような責任があるのか。
だからこそ私は、野生動物に対して「増えすぎ」という言葉を耳にしたとき、一度立ち止まって問いかけたいのです。
「何を基準にして、増えすぎと言っているのだろうか」
「その判断を下す前に、私たち人間自身の活動を問い直す必要はないのだろうか」と。
野生動物の数をただ「多い」「少ない」とラベル貼りするのではなく、なぜその個体数になっているのか、どのような環境条件のもとで生きているのか、個々の野生動物たちはどのような経験をし、そこにどのような変化が起きているのかに目を向けること。
そして、その変化を「問題」だと評価しているのは誰で、どのような基準によるものなのか。さらには、なぜその問題の解決策として、真っ先に「野生動物を減らすこと」が選ばれるのか。
私は、そこから思考を深めていきたいと考えています。
現在の(問題とされている一部の)生態系の状態を、シカたちの影響だけに帰してしまってよいのでしょうか。「増えすぎ」という言葉の陰に隠された私たち自身の問題と、人間としての責任の所在を、今一度問い直す必要があるのではないでしょうか。
